“縛り”ではなく“信頼”を親子のゲームルールを見直してほしい理由

ゲームの間”ゲー間”

子どものころ、私の家には「ゲームの時間を決めるルール」がありました。

1日の中でいちばん楽しみにしていた時間なのに、タイマーが鳴ると強制的に終わり。

まだ遊びたかった気持ちは、いつも小さく飲み込んでいました。

今思えば、あの“縛り”は親の優しさから生まれたものだったのかもしれません。

けれど同時に、「信じてもらえていない」という寂しさも残りました。

子どもにとって大切なのは、遊ぶ時間の長さよりも、「どう遊ぶか」「どう向き合うか」を信じて見守ってもらえること。

この記事では、かつて“縛られる側”だった立場から、ゲームとの付き合い方、そして“信頼”のあり方について考えてみたいと思います。

子供の頃を思い出す

小学校時代

私の母はゲームに対するルールが厳しい人でした。テレビゲーム(Wiiなど)は1日30分、携帯型ゲーム(当時で言う3DS)は1日15分まで。また、スマホは高校まで持たせてもらえず、インターネット使用を強く制限されていました。

当時小学生の私はそれに対して特に不信感は感じず、反抗心などもなく従ってきました。

シギ
シギ

母が怒るとヤバいっていうことから反抗しなかったというのもあったと思います。

ですが、友人は結構縛りが緩かったようで、うらやむこともしばしば。

そこで、友人の家で長々とゲームをして遊ぶことが多かったです。(母には外で遊んでいるとうそをついていましたがね…)

シギ
シギ

ちなみに友達の家で遊ぶと言って遊びに行くと1週間ほどゲームができなくなってました。

勉強に関してはこういった縛りのもとだったので上位のほうに位置していた覚えがあります。

これが小学校時代のお話です。

中学校時代

中学に上がってすぐは小学校の時と変わりはありませんでした。ですがここで大きなターニングポイントが発生します。

それは中学1年生の時、「母が病に倒れてしまった」のです。

シギ
シギ

一応断っておきますが、母はなくなってませんからね!

この出来事に関してはまた別の機会にお話ししようと思います。

倒れて1~3か月ほどはショックでゲームどころではなく,,,ですが母のいない生活に慣れてしまってからゲームを時間を気にせず遊ぶようになて行ってしまうようになっていきます。

縛りから解放され、今まで母が築き上げてきた私の中の秩序が崩れていきました。

ただこの自由もつかの間、私には兄がいるのですがその兄に、私が使うゲーム機に時間制限設定がかけられてしまいます。これが第2のターニングポイントでした。

短期間の自由でしたが1度甘い蜜を知った人間が縛りのある状況に戻るのは無理難題な話。私は兄の時間制限設定をかいくぐり、ゲームに没頭するようになっていきました。

シギ
シギ

かいくぐったといっても、ゲームの時間が雀の涙ほど伸びただけですがね…

この時学校の成績は中の下ほどまで下がってしまい、高校受験では相当苦労することになりました。

高校時代

高校の頃も中学時代とほとんど変わりません。しかしながらスマホを与えられたので、もらった直後はその分勉強からは身が引いていったと思います。

しかしながら、少しずつ自制がきくようになり勉強は上の下くらいまで上げることができました。

現在

今では成人したので、しかもちょうど兄がゲーム機の存在を忘れていたのもありゲーム機の時間制限機能をゲーム会社からパスキーを発行してもらうことで解除することができ、完全に自由にゲームができるようになりました。

またこのあたりから自分で時間を決めてゲームと学校の課題などをやる時間とでメリハリをつけて行動できるようになったと思います。

過去を振り返って

今になって思うのは、物心つく前から自由という状況を学ぶことができたら自分を律することができ、今までの状況が大きく変わったのではないかなということです。

今はゲームができる時間に制限がなくいつでもさわれる状況下です。ですがそれはすなはち自分で時間を決めてやることをやる時間を作らなければならないということです。

小学生のうちはやることをやらないで失敗しても取り返しがつくと思います。(例えば夏休みの宿題が終わらなかったとかですね、)ですが、大学生の今これをやると、留年のリスクがありその結果大きく時間を浪費することになります。

母の私のことを思って自由を奪い、自分を律することを学ぶ環境を作ってくださったのかもしれません。ですが母が倒れてしまったことにより環境が崩れ、結果母の教えを裏切る形になってしまいました。

もし母が私を信じて自由な環境を与えてくれていたら、母が倒れても自分を律することができ、今とは違う未来があったのではないかと、自由になり自分を律する術を得た今になってそう考えてしまいます。

シギ
シギ

決して母が悪かったと思ってないということはここで断らせていただきます。

さいごに

あの頃、私は“縛られること”を不自由だと感じていました。
けれど今になって思うのは、本当に欲しかったのは「自由」ではなく「信頼」だったのかもしれません。
親が子を信じ、子がその信頼に応えようとする。
その関係の中でこそ、初めて“自分で選び、自分で律する力”が育つのだと思います。

これを機に、お子さんとの向き合い方を考えてくださればと思います。

ご精読ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました